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北安曇郡誌(大正12年発行)の記録 (new) Edit

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難しい字が多いので違うところもあるかも知れませんが、次の様に書かれていると思います。

  • 大麻
    郡内で生産される大麻の品質はかなり良く、生産額の多いのは、美麻、神城(白馬)、北城(白馬)、中土(小谷)等である。その内美麻村は栽培の元祖であり、慶安年間(1648〜1652)には栽培がされていたといわれる。
    誰がどの様に輸入し、栽培を始めたかはわからないが、この地域より先に隣接する津和(信州新町)、南小川(小川村)、鬼無里(長野市鬼無里)、北小川(小川村)の諸村で盛んに栽培されていることから、種子はその地方より輸入されてきたものであろう。
     寛文(1655〜1672)の頃には盛んに栽培され麻上納と称して大麻栽培の畑より年貢を領主に納付したことは、当時の記録からも明らかになっている。
     享保十一年(1726)松平丹波守光慈が領主の頃には、従来の麻上納と称して穀菽(カラムシ?)を代納していたものを廃止して、大麻の現品を貢献する例規に改めるとともに、粗悪な物を除き優良品のみを上納するよう生産者の競争心をあおらせると、美麻村では真に美麻の名に負けない優良の製麻を産出すると共に、各村落が競って良品を造り出すようになり、栽培区域も拡張し益々生産額も増加した。
     その後、宝暦年間(1751〜1763)から明治初年(1868)までは、従来の生産方法を堅く守ってきたが、明治十八年(1886)に栃木県都賀郡より白木麻の種子を購入しその栽培製造の教師を同地から招聘して講習したことで、在来品より一層品質が良くなった。
     続いて、明治二十年(1888)、長野県より製麻教師が派遣され、各村落を巡回し製麻技術を教えたところ益々改良発達し、世間の評価を一新すると同時に麻布、畳糸等を製造することで、農家は冬期間の副業として多大な利益を収めるようになり、今日に至っている。
    【北安曇郡誌 112頁 第1篇第4節工芸作物 より】

麻布が正倉院に残されていた! Edit

 大和朝廷が支配権を広げた4世紀後半。国・郡・里の制度が導入され、租・庸・調という納税制度が確立しました。
 美麻村も信濃国の安曇郡となり、布などを「調」として献上していたようです。
 「信濃国安曇郡前科の真羊」と記された麻布は、現在も正倉院に残っています。

江戸時代、盛んだった麻栽培 Edit

 美麻村は松本藩大町組となり、麻の栽培が盛んに行われ美麻・八坂方面で生産される麻は「山中麻」の名で全国に販売されていきました。あまりに需要が高まったため、慶長14年(1609年)には他国から入ってくる麻商人による「山中麻」乱売を禁止する命令が出たほどです。

美しい麻の産地、美麻村誕生 Edit

 美しい麻の産地として知られたことから、その名のとおり美麻村が誕生したのは明治8年のこと。
 美麻は山間の寒冷地。地形も気候も作物を育てることが難しい環境の中で、麻は過酷な環境に最適な作物だったのです。
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美麻は村名のとおり青麻の生産が盛んであった。その時の青麻三貫目の送り状(写真:左)
明治41年4月、美麻村製麻組合による製麻風景(写真:右)
(村制施行百周年記念誌 美麻村の百年より)

昭和初期 Edit

 第2次世界大戦が始まると、軍需麻として麻は統制品となりました。
 良質な麻は軍用ロープの材料となり、軍艦の船体の鉄板の中に入れられ防弾用に使われるなど、非常に重要な役割を果たしました。供出した麻は厳重な検査を経て直接軍関係機関に送られ、その反動で一般の売買は禁止されました。
 当時、美麻産の麻の8割が軍関係で使われたことからも質の高さがうかがえます。

昭和50年代 途絶えた麻栽培 Edit

 戦後は、次第に麻の需要が減り、麻栽培は昭和50年中ごろ美麻村から姿を消しました。
(美麻村村勢要覧 平成4年発行より抜粋)

※麻栽培の様子は、平成に入って麻栽培の復活を検討した際の写真や「麻の館」の展示からうかがうのみです。

麻の復活へ新たな挑戦  Edit